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〜 問屋街さんぽ 〜
- 横山町(よこやまちょう)
江戸時代初期、この地に西本願寺の別院がありましたが、明暦の大火の後に築地に移転したため、その跡地に町屋が開かれました。もとは御家人横山某の知行地で、それが町名の由来といわれます。浅草御門に向かう本町通り両側の町屋で、街道筋にあたっていたことも手伝って、小間物、薬種、書物などの各種問屋が軒を並べる問屋街として発展し、やがて江戸の代表的な商店街となりました。明治に入ってからも、大通りや新道通りにはさまざまな種類の問屋が増え、東京の大問屋街を形成していきました。現在も〈横山町問屋街〉と総称されています。馬喰町との堺をなす〈新道通り〉は、ここに店を開く商人には成功者が多かったことから、俗に“出世新道"ともいわれました。いまもありとあらゆる多彩な商品を扱う問屋が軒を接して店を構え、現金問屋街独特の雰囲気を作りだしています。
- 馬喰町(ばくろちょう)
今は問屋街の馬喰町ですが、古くは馬市の立つ町でした。靖国通りと江戸通りの交差点の北側に〈初音の馬場〉と呼ばれた馬場もあって、関ヶ原の戦の際には、ここで馬ぞろえ(出陣前の馬の検閲と演習)が行われたといいます。博労(馬の善し悪しを鑑定し、売買・仲介をする人)の頭、高木源兵衛や富田半七などが住んでいたところから当初は博労町、のちに馬喰町となりました。
明暦の大火(1657)の後、浅草御門、今の浅草橋たもとに関東郡代の屋敷が置かれると、地方からの公事師(訴訟代理人)のための旅籠屋が増えてきました。横山町に隣接していたことから、各地から訪れる仕入れ、売り込みの商人たちの出入りも盛んで、大小の旅籠が集中し、江戸一番の旅館街として活況を呈したといいます。旅館のほか、江戸土産を求める人のために小間物、化粧品、煙草、袋物などの店も多くなり、やがて馬喰町問屋街として開けました。現在は、江戸通りをはさんで商社ビルや銀行などが建ち並ぶ一大商業地を形成しています。
- 東日本橋(ひがしにほんばし)
昭和46年(1971)の住居表示実施によってできた町名で、1丁目から3丁目まであります。そのうち、現在の集積問屋街を構成している東日本橋3丁目の大部分は、もとは〈日本橋橘町〉といいました。俗に振袖火事として知られる明暦の大火の後、万治2年(1659)に両国橋が架かり、端の西側(中央区側)に防火対策として広小路が設けられ、ここに小屋掛けの軽業や見せ物、飲食店などが並ぶようになると、両国は江戸有数の盛り場となりました。いまは東日本橋2丁目となっています。東日本橋3丁目のあたりは、むかし横山町に西本願寺の別院が置かれていた頃、門前に立花(橘)を売る店が多かったことから、橘町と呼ばれました。現在も横山町から東日本橋3丁目一帯にかけて「横山町橘町通り(通称:横橘通り)」として商店を連ね、問屋街にその名をとどめています。
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